レッスン後の挨拶がひと段落したころ、JURIAが肩の高さで手を振った。
「この近くに、ヨガやピラティスのウェア専門店があるんです。私の行きつけで——よかったら見に行きません?」
断る言葉が喉まで来て、彼女の目元のやわらかさにほどける。
「……少しだけ。見るだけなら」
「うれしい。似合いそうなもの、いくつかチョイスしますね。もちろん無理に買わなくて大丈夫です」
◆
夕方の風が汗を冷ます。
並木を抜けると、木目の看板と大きなガラス。白とベージュの店内に、爽やかなシトラスと新品の布の匂いが“すう”と通る。
ハンガーの金属が“からん”と触れ合い、澄んだ音が奥へ消えた。
「いらっしゃいませ」
スタッフが会釈し、JURIAに気づくと笑顔が一段明るくなる。
「先生、こんにちは。今日はお連れさまも?」
「はい。初めてのウェアを探しています。動きが見えやすくて、優しく整うものを」
「男性用はこちらですよ」
胸がどくりと跳ねる。
「いえ、こちらの生徒さんは女性用を。私の『女性らしい体づくり』のレッスンに参加してくれているんです」
「えっ……あ、なるほど。失礼いたしました。大きめのサイズはこちらにございます」
俺は否定の言葉を喉で飲み込み、勧められたコーナーへ足を向けた。
◆
JURIAがラックから淡いグレーのレギンスを一枚抜く。
「コンプレッションは“支える”くらい。締めつけすぎないほうがいいんです。サイズが合えば、自然とポーズも仕上がっていきます」
続けて、コーラルピンクのスポーツブラ。
「Tシャツは布が垂れて、おへそに視線を送りたいときに邪魔になるんですよ。やっぱりスポブラがおすすめです」
「い、いや、その……」
拒否の形が中途半端に空気へ出て、やわらかな笑顔に受け止められる。
「まずは試着してみましょう。似合わなければやめればいい。——似合ったら、どうしましょうね?」
冗談の温度。逃げ道を残した言い方なのに、退路が逆に細くなる。
「じゃ、じゃあ……確認だけ」
◆
フィッティングルームに入る。
生成りのカーテン、足元はやわらかな絨毯。鏡に映る自分の表情は、いつもより少し柔らかい。
「まずレギンスから。裾を手繰り寄せて、親指を通しながら引き上げると楽です」
指示どおりに布を滑らせる。
“ひやり”とした冷感が脛から太ももへ上がり、膝の上で“きゅっ”と落ち着く。
幅広のウエスト帯が、へその少し下で水平に留まった。
鏡を見ると、脚の外側に細い影が一本走る。
足裏の親指に意識を置くと、膝が自然に寄り、布が内腿で“ぴと”と触れた。
その場所だけ体温が上がる。
ただ、そんな事より膨らんだ股間にどうしても目が行ってしまう。女性用のレギンスなのだから当然だ。こんな膨らみは本来想定されていないのだから…。
◆
「レギンスは履けましたか? 次はブラですね。今回はホックなしなので、下から通して胸まで引き上げてください」
カーテンの向こうからJURIAの声。
言われたとおり足を通し、胸まで引き上げる。締めつけというより、背中で支えられる感覚。
姿勢が勝手に上へ引かれ、呼吸が胸の面に広がった。
「着けられたら、鏡を見てください」
恐る恐る正面に立つ。
Tシャツのときより、肩と胸の面が一枚の布になっている。
ウエストの上に空気の隙間ができ、腰の位置がはっきり分かる。
「カーテン、開けますね」
シャッ、と布が走る。
「……これ、僕——いや、俺、変じゃないですか。股間だって…」
「変じゃないですよ。サイズもぴったりだし、お色も素敵です」
言い切られて、口の中の言い訳が溶ける。
「どうします?」
「あ……じゃ、じゃあ、このセットで」
「では、このセットで」
すらすらと品番が控えられ、レジの音が軽く鳴った。
◆
店を出ると、夜の風が紙袋の口を“ふわ”と揺らす。
信号待ちで並ぶと、JURIAが歩幅を合わせた。
「ヨガもウェアも素敵なものをご提案できて、今日はうれしかったです」
「……は、はい…」
「ぜひ次回のレッスン、そのウェアで来てくださいね」
紙袋の持ち手が指に食い込み、軽いのに重く感じる。
「俺…似合ってましたか?」
「似合ってました。あなたが思っているよりずっと」
駅までの道、他愛ない話が続く。会話の合間に、JURIAは何度か「女性らしく…」と言った。言葉の余韻が、胸の面に貼りつく。
改札前で立ち止まる。
「次は一週間後のレッスンですね。予約、入れてあります。楽しみにしてますね」
「あ…今日はありがとうございました」
電車の窓に映る俺は、紙袋を大事そうに抱えていた。
家の玄関で袋を開けると、布の匂いとお店のシトラスの香りが“すう”と広がる。
スマホのカレンダーには「女性限定ヨガ」の文字。
次回は一週間後。
——俺は、今日買ったウェアを着て、どんな顔をして参加するのだろう……。
【3章へつづく…】
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