「まずはブラウスとベストね」
瑠衣が肩越しに囁く声が妙に近い。息が耳をかすめてくすぐったい。
白いブラウスを手に取ると、指先に“さらり”とした冷たさ。
「レンさん、ボタンは上から? 下から? 仕事できる男性は下からって聞きました」
茜が茶化し、僕はつい真面目に答える。
「普段は下から……いや、今はどうでもよくて」
ボタンを留めるたび、体が締め付けられる感覚。女性の服を纏っているという事実。胸の奥がそわそわする。
「声、ちょっと柔らかくなってるよ」
真帆が観察するみたいに笑った。
そして頼りないベストに袖を通す。まさか、自分が会社でこんな格好になるなんて、思ってもいなかった。
◆
ネイビーのタイトスカート。ウール混の生地は外がしっとり、裏地のサテンがひんやりと太ももをなぞる。
「膝はそろえて、腰はここ。うん、ラインきれい」
瑠衣がくるりと回り込む。
膝上で留まるスカートが太ももを意識させ、息が詰まる。空調の低い唸りがやけに大きい。
◆
「最後はこれ、仕上げです」
黒のパンスト。ナイロンの薄膜が指に吸いつく。
「それ、私が今日穿いていたやつなんですけど…レンさんにあげますね。穿いてください」
茜の声が無邪気で、ほんの少しだけ意地悪い。
ほのかに甘い柔軟剤の匂いが混じり、喉がきゅっと渇く。
布が膝頭を越える瞬間、肌のざらつきが“つるり”と変わって鳥肌が引いていく。
◆
「服装はいい感じだけど…。うん、顔も仕上げよっか。――借り、完済コースね」
瑠衣が椅子を引き、僕を座らせる。肩にティッシュをかけ、前髪を小さなクリップで留める。デスクに置いた鏡にブラウスの白い襟元が映る。
「ファンデーション、いきますね」
茜がリキッドを、パフで“とんとん”とスタンプする。
頬骨、額、顎先――小さく叩く圧が心拍と同期し、くすみがベージュの膜に溶ける。
「首まで一段ぼかすと、境目が無くなるんですよ。覚えて下さいね?」
「光と影、入れるよ」
真帆がハイライトとシェーディングを取り出す。
「ハイライトはTゾーンとこめかみに入れるんだけど、男性は眉骨が出てるから、ここは控えめにね。」
微細なパールが蛍光灯をすくい、肌が内側から光り輝く。
「シェーディングは頬骨から下を、顎の影に沿って薄く。男性的な顔の輪郭はシェーディングで無くしていこうね」
影が入るたび、輪郭が“男の顔”から少しずつ遠のくのが怖いのに、目が離せない。
◆
「次はアイメイクだね」
「私、苦手なんですよー」
「教えてあげるよ!レンくんと一緒に覚えるといいよ」
瑠衣と茜が楽しそうに会話をしている。
ブラシでベースの薄ピンク色のシャドウを一面に。粉の甘い匂いと、毛先のこしが瞼をくすぐる。
「基本はグラデーションを作る事だからね。目の周りに近付くほどに段々と濃く…」
ブラシがしなやかに往復し、陰影が奥行きを作る。
「真帆、ラインは任せた」
「わかりました。インラインから」
アイライナーでまつげの隙間を埋めると、黒が粘膜の影に溶けて瞳がくっきりする。
「目尻は2ミリだけ伸ばす。今日は“可愛い”寄りだから、下がりめにするよ」
細い筆先が目尻を下げ、息を詰めた時間だけ線が生きる。
「ビューラー、いこっか」
瑠衣が金具を手で温め、根元→中間→毛先と三段で挟む。
上がったまつげがまぶたに影を落とし、瞬きのたび空気が変わる。
「このマスカラ、おすすめだよ。滲みにくいから」
そのまま瑠衣がスクリューブラシを引き抜き、ジグザグに動かす。まつげの繊維が“するり”と束に整う。鏡の中の目が、さっきより大きい。
◆
「チーク入れますよ。軽く笑ってください」
茜が丸筆でコーラルのチークをふわり。頬骨の高い位置から耳前へ、薄い弧を描く。
「高めに置くと、幼さが出るんですよ」
体温が色に変わったみたいで、視線がそこに集まるのがわかる。
「最後、リップだね。これを塗ったらレンくんはもう完全に女の子だね」
瑠衣がリップティントで唇を紅く彩っていく。
色がのった瞬間、ほのかなベリーの味が舌先に触れ、呼吸が浅くなる。
グロスを一点、上唇の山へ。光がそこに留まり、言葉が出遅れる。
◆
「……よし、完成。――経理の制服、この中でいちばん似合ってるのはレンくんだね。これで借りは七割返済ってとこかな」
瑠衣が腕を組んでにやり。
真帆が指先でブラウスの裾を軽く整える。
「同期の中で一番可愛いんじゃない。目がさっきよりも優しく見えるよ。女の子の恰好するの、まんざらでもないんじゃない?」
「レンさん、すごく素敵ですよ!本当に女の子みたい!いや、もう女の子ですよ!」
茜が楽しそうにはしゃいでいる。
鏡の中に映る姿は、もう朝の僕じゃない。すっかり変わってしまった僕。
借りは七割返済。残り三割は何をさせられるのか。大きな不安と、少し、ほんの少し芽生えつつある期待が僕の心を惑わせていた。
【3章へつづく…】
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