午前中の打ち合わせが、思った以上にうまくいった。
私はちょっと浮き立つような気分で会社へ戻っていた。
「この調子なら午後も頑張れそう……」
小さくつぶやいて、会社近くのコンビニに立ち寄る。
おにぎり一つとサラダ、それからうまくいった自分へのご褒美にミルクプリン。
会計を済ませ、袋を下げて会社へ戻る途中だった。
ふと、視界の端に「見慣れた服」が映り込む。
うちの会社の経理部が着ている事務服。白いブラウスに青いリボン。それにネイビーのスカート。
「……あんな人、うちの会社にいたっけ?」
すれ違った瞬間、私は思わず振り返ってしまった。
だって、その制服を着た女性、どこかで見たことがある気がしたから。
◆
胸がざわつく。
黒の綺麗な髪の毛に小柄な体系。
――レンさん!?
尊敬してやまない先輩の横顔。営業部でいつも私を気にかけてくれる人。
優しいのに頼りがいのある先輩が、事務服姿の「女性」として歩いていた。
どうして……?
心臓の鼓動が一気に早くなる。
違う、何かの見間違いかもしれない。
だってレンさんは男性で、スーツを着て……。
「他人のそら似……そんなこと、ある?」
自分に言い聞かせようとしても、首を横に振るしかなかった。
いや、会社に戻ればいつもの場所にいるはずだ。
昼休みの休憩スペースをのぞく。
いつもならレンさんは同僚たちと冗談を言い合いながらお弁当を広げているはずなのに、そこに姿はなかった。
袋を抱えたまま、私は自分の席に腰を下ろす。
胸の中で答えが形になっていく。
――間違いない。
さっき見た総務の事務服を着ていた女性は、女装したレンさんだ。
言葉にした瞬間、全身が熱くなった。
なぜだろう。驚きと同時に、変に胸がざわめく。
秘密を知ってしまったような感覚。
知らなければよかったのに、でも目を逸らせない。
◆
時間が過ぎ、お昼休みが終わるころ。
ドアの向こうから、カツカツと革靴の音が聞こえた。
顔を上げた私は、思わず息を呑んだ。
レンさんが、何事もなかったかのように戻ってきた。
いつも通りのスーツ姿、きちんとしたネクタイ。
それなのに――私はもう知ってしまっている。
ついさっきまで、あの人は別の姿で街を歩いていた。
そのまま自分のデスクに座った。
私もレンさんのデスクに近づく。
気づけば、私は口を開いていた。
「……レンさん。昼休み、どこに行ってました?」
自然を装ったつもりなのに、声が少し震えていた。
レンさんの瞳が、一瞬だけ揺れた気がした。
◆
「え、えっと……ちょっと外に……なんでそんな事聞くの?」
私が一歩近づくと、レンさんは不自然に席を立った。その動きだけで、心臓がぎゅっと締め付けられる。怪しい……怪しすぎる。
いつもの優しく落ち着いた先輩の姿とはまるで違う。眉のわずかな寄り方、手の震え、逃げるように視線を逸らす仕草。見てはいけないものを見たような気持ちになる。
「実は……私、今日は午前中、外回りに出てたんです。ちょうどお昼前に戻ってきたんですけど……さっき、レンさんにそっくりの女の子とすれ違ったんですよ」
目の前のレンさんはどう返すのだろう。
「あ、もしかしたら僕の妹かもしれない。昔から似てるって言われてて……」
妹……!? そんなの聞いたことがない。言葉の軽さと裏腹に、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。ますます怪しい。いや、間違いない。今の私の直感は、絶対に外れない。
レンさんはそのまま書類を手に取り、逃げるように席を離れてしまった。
◆
「千尋ちゃん、ちょっといい?」
総務部の真帆さんに呼ばれた。レンさんと同期で、仕事ができる頼もしい先輩。業務上はあまり関わりがなかったけれど、呼ばれたその声のトーンに、なんとなくいつもと違う重みを感じる。
真帆さんは穏やかな微笑みを浮かべているけれど、その瞳の奥に何か確かなものを感じる。
「さっきレンくんに話してたでしょ? 私も聞こえちゃったんだけど」
しまった――。声は潜めていたつもりだったのに、聞かれていた。どう誤魔化そうか、と考えながらも、言葉がうまく出ない。
真帆さんは私の動揺を見抜いたのか、軽く頷き、穏やかな声で告げた。
「さっき千尋ちゃんが見たのは、間違いなくレンくん本人。彼、女装してたの」
「じょ、女装……?」
思わず声が震える。喉の奥で小さく震える声がこぼれた。やっぱり……私の予想は間違っていなかった。そして、何より衝撃なのは、真帆さんが元から知っていたことだ。
レンさんの同期である真帆さんなら、何か相談を受けていたのかもしれない。心のどこかで、胸がぎゅっと締め付けられる。
「レンくんにとって、千尋ちゃんは直属の後輩でしょ?支えてあげてほしいの。表立ってじゃなくていい。陰ながらでいいから」
言葉の重みが心に染み渡る。入社当初、右も左も分からなかった私を、いつも優しく手助けしてくれたレンさん。どれほど救われたか、今さらながら胸に込み上げてくる。
あのときの恩を、今度は私が返す番だ。誰にも知られず、そっと支える。その思いが胸の奥で静かに燃え上がり、小さな決意の火となった。
そして、ふと思い付く。
そうだ、今日の仕事終わりにレンさんにプレゼントしよう。ささやかでも、喜んでもらえるものを。リップ……レンさんに似合いそうな色のリップを選んであげよう。
胸の奥で、尊敬とちょっとした高鳴りが混ざり合い、じんわりと熱を帯びる。
先輩を喜ばせたい――その気持ちが、私の胸に小さな覚悟を芽生えさせた瞬間だった。
この日から、私の日常は大きく変わっていった。
※次回からは別のキャラの物語を投稿します
——————